慈宏寺縁起

慈宏寺は日蓮宗のお寺です。

紀元前五世紀に、インドで生まれた仏教はやがて中国、朝鮮半島を経て日本に招来されました。日本に伝わった仏教は奈良を中心に六宗の宗派が成立しましたが、時代がすすみ、現在の伝統仏教は大別して十三宗あります。「日蓮宗」はその中の一つで、鎌倉時代(建長五年四月二十八日(西暦1253年))日蓮聖人によって開宗しました。日蓮聖人三十二歳の時、お釈迦さまの真実の教えを求めた末に、「法華経こそが人々を救済する最高の教え」であるという確信に達し、「この法華経を尊敬し心から信じることを誓いますという『南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)』(お題目)を唱える唱題を実践し広めることで人々を救済しよう。」というお考えから開かれた宗派です。

井口山慈宏寺

慈宏寺は山号を井口山といいます。 これは、江戸幕府四代将軍・徳川家綱代の寛文十三年(1673)、当寺のある大宮前新田を含む札野新田開発を行った関村(現・練馬区)名主・井口八郎右衛門信忠の嗣子(しし)であり、大宮前新田名主・井口杢右衛門義重が一宇を創し、妙福寺(現・練馬区)十九世慈宏院日賢上人を招じて慈宏寺を開山したことに由来します。  以来約350年間、この地に於いて大宮前村とともに栄枯盛衰(えいこせいすい)の歴史を辿ってきました。

元禄四年(1691)、五代将軍・徳川綱吉のとき、幕府は法華経の信者以外に“施しをせず、また施しを受けぬ”という“不受不施(ふじゅふせ)”の信条を守りつづけた碑文谷法華寺と谷中感応寺を天台宗に改宗させました。そのおり、法華寺に安置されていた日朗上人作の「荒布の祖師(あらめのそし)」をはじめ、釈迦如来、多宝如来の両尊像を当山に移し安置しました。

庶民を震撼させた八代将軍吉宗の「享保(きょうほう)の大改革」や度重なる飢饉や凶作に、慈宏寺と大宮前新田村にも危機が訪れましたが、慈宏寺は歴代上人の粉骨砕身の尽力と檀信徒や村民の厚い外護によって当山は護持されて参りました。しかし、慶応四年(1868)に江戸幕府が崩壊すると、明治新政府による神仏分離令が公布され、廃仏稀釈(はいぶつきしゃく)運動がおこりました。この運動によって日本中の多くの寺院、仏像が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。慈宏寺は当山の開山とほぼ同時期に開創したと思われ別当(べっとう)を兼帯していた春日社(春日神社)の別当職を解かれます。
さらに、廃仏毀釈の荒廃を乗り超え見事に立ち直ったのもつかの間、明治十一年(1878)三月十七日深夜、類焼により諸堂宇すべて灰燼に帰してしまいました。

全ての伽藍、開山以来の旧記等はすべて焼失してしまいましたが、幸いなことに荒布の祖師(あらめのそし)像をはじめ諸尊像は火中より檀家の方が救出され難を逃れました。その後、松庵村にあった廃寺・円光寺本堂を移築し本堂とし再興を目指します。昭和六年(1931)、三十八世久遠院日遣上人が入山、墓地整備増設がなされ、写経堂、久遠塔、立正安国碑など次々と寺容整い、昭和四十八年(1973)には現在の本堂・庫裡が落慶し当山は中興します。また、平成七年(1995)には当山三十九世久遠院日漸上人(院首)により祖師堂が落慶します。現在、慈宏寺は、幾多の苦難や危機を乗り越えて、大宮前村の人々、檀信徒と共に新たな歴史を刻んでいます。